会員コラム

「最近こんなこと」

「仕事」と「稼ぎ」

久保田 繁男

哲学者の内山節は、群馬県上野村の村人達が働きに行く時に、「仕事に行く」と「稼ぎに行く」を使い分けていると指摘している。

「仕事」は、畑仕事や山仕事、農産物や林産物の加工等があるが、生産物を生まないが「村の営みにとってなくてはならない」山道を直したり、共有地の草刈も含まれる。「稼ぎ」は、「稼がなければならないからする労働」で、土木関係の労働に従事して日当を得る場合や、「勤め」など、家計のために必要にすぎないものが稼ぎと言われる。畑仕事や山仕事でも、収入を第一の目標に据えた時には「稼ぎ」に変わる。そんな概念の使い分けが行われている。いずれも広義の労働の範囲に含まれる。

狭義の労働である賃労働は、「稼ぎ」であり「疎外された労働」である。所詮「疎外された労働」であるからと、雇用の確保と労働条件に拘れば良いのだろうか。原発推進の電力労組やマンションの手抜き工事、人事権を握られて政権に忖度する官僚の姿を見て痛切に感じる。自らの労働が創る使用価値の社会的意味を考えることが必要だろう。それは仕事をする人のプライドであり、資本の論理とは一線を画して成立する。経営に取り込まれることもあれば、経営とぶつかることもある両刃の剣である。